「漢方」とはいつからある言葉なのか?
色んな医学が存在するようになった
日本が鎖国していた江戸時代中~後期、「オランダ(ヨーロッパ)の学問・文化・技術」=「蘭学」のひとつとして、今までの医学とは異なる医学がオランダから伝来します。それまで日本で医学と言えば、中国から輸入され、日本でアレンジされたもの(→日本漢方)しかなかったわけですから、これらを区別するため、「蘭」に対して従来のものを「漢」「和」と呼ぶようになったようです。
解体新書銅版全図
[国会図書館デジタルコレクション]
蘭学が当時の医学界に及ぼしたインパクトは大変なものでした。日本人は漢(和)・蘭を別物として区別するわけではなく、どちらも学んで(漢蘭折衷)一人前、という風で、医学を志す人々は両方の学び場(師匠、私塾など)に出入りしていたようです。まこと日本人らしい行動です。
当時、漢(和)で主流だった古方派には理論らしい理論がなく、臨床治験を重視した実践的医学を貫いたため、科学を基盤とした西洋医学を受け入れてもそれほどの軋轢を生じなかったようです。実際、江戸中期以降から蘭学が浸透し、邦人医の中には蘭学を積極的に導入する漢蘭折衷派が台頭し、華岡青洲(1760~1835)他有力な医師を多く輩出していた背景もあります。
幕末では、国学と漢学を合わせて「皇漢学」と言いました。尊皇攘夷の影響でしょうか。医学は「皇漢医学」となります。
当時、漢学は教養人として必須のもので、正式な文章は漢文で書かれました。ちなみに江戸時代の日本漢方実践者で有名な吉益東洞(1702~1773)は漢文の素養がなかったと言われています。それがいい意味(向上心)でも悪い意味(名誉欲、コンプレックス)でも彼を強く特徴付けています。
明治初期より、皇漢医学は「和漢医学」と改称されます。薬も和漢薬です。湯本求真(1876~1941)の著書『皇漢医学』(昭和2年発行ですが、復古主義なのか彼のこだわりなのかはわかりません)は有名です。
日本人は自国の事物を表すに「和」「倭」「国」という漢字を使いました。
このまま「和漢薬」という言葉が使われ続けていれば話は簡単なのですが、現在「和漢薬」という言葉は使われません。何故でしょう。
漢方という言葉
浅田宗伯(1815~1894)
「漢方」の用語は、浅田宗伯(1815~1894)の書が初出であると言われています。浅田宗伯は「漢方」を「『傷寒論』著者・張仲景の方」の意で用いました。
この「方」は本来、方士(方術を行う者)・方術(不老長寿の術)の「方」です。漢方の方が「方剤」を想起させるので薬物療法のことだと思っている人も多く、鍼灸を含めない場合が多いのですが、中国伝統医学は本来、鍼灸・薬物療法・養生法・導引などを含むものです。
日本人は古来「漢」を中国の代名詞として用いてきたので、中国から伝えられた医学を「漢方」、漢代に基礎が完成した方術(技術・医学)、漢代医学に基礎を置く方剤を中心とした医学という意味で使ったということもあります。
中国の歴史上、漢代は各種の文化・学芸が高度の発展を遂げ、医学も現代に続く理論が構築されました。漢代は今の中国でもいい時代・中国の基礎・根源と認識されています。日本の『傷寒論』復古主義、「『傷寒論』に帰れ」という日本漢方古方派の主張も、実は清の『傷寒論』研究の影響らしいという説もあります。
どうしてかわかりませんが「漢方」といった方がしっくりきたのでしょう、「和漢薬」という単語は使われなくなりました。日本の医学(和方、和漢医学)というより、中国から教えてもらった医学という意識の方が強かったのかもしれません。ウムム。
中国から医学が伝来して以降、手に入らない生薬、気候の違い、古典に書かれている技術の習得の難しさから少しずつ日本化が進みます。江戸時代になってから、この医学はさらに日本的特徴を形成します。背景には戦争のない状態つまり平和→文化の向上→出版の増加、識字率の向上、経済の発達などがあったことでしょう。なお、「蘭方」「漢方」「和方」といった風に「方」をつけたのは後代と言われています。この頃に使われていたのかははっきりしません。